西暦 |
年号 |
年齢 |
事項 |
1758年 |
宝暦八 |
1 |
越後三島郡出雲崎の名主・橘屋山本家の長男として生まれる。幼名栄蔵。 |
1770年 |
明和七 |
13 |
大森子陽が江戸より帰国、地蔵堂に塾を開く。その子陽塾に入門。 |
1772年 |
安永一 |
15 |
元服。翌年の説もある。文孝と名乗った。 |
1775年 |
安永四 |
18 |
子陽塾を辞し、名主見習役となる。
7月18日、尼瀬の光照寺の玄乗破了に従い剃髪する。 |
1778年 |
安永七 |
21 |
弟由之、17歳で名主役になり、新左衛門と称する。 |
1779年 |
安永八 |
22 |
5月ごろ国仙和尚より得度。備中玉島の円通寺におもむく。 |
1783年 |
天明三 |
26 |
母のぶ死去(享年49) |
1785年 |
天明五 |
28 |
4月、亡母三回忌に一時帰郷。 |
1786年 |
天明六 |
29 |
父以南、隠居し、由之が25歳で山本家を相続する。 |
1790年 |
寛政二 |
33 |
師国仙和尚が良寛に印可の偈を与える。 |
1791年 |
寛政三 |
34 |
師国仙和尚遷化(享年69)。 |
1795年 |
寛政七 |
38 |
父以南、桂川に投身自殺(享年60)。 |
1796年 |
寛政八 |
39 |
帰国。郷本の空庵に仮住まいか。 |
1797年 |
寛政九 |
40 |
国上山の五合庵に住む。 |
1801年 |
享和一 |
44 |
以南七回忌追善句集『天真仏』を京都で出版。
江戸の歌人大村光枝が良寛を五合庵に訪ねる。 |
1802年 |
享和二 |
45 |
寺泊の照明寺密蔵院や牧ヶ花の観照寺に仮住まい。 |
1804年 |
文化一 |
47 |
由之が出雲崎の住民から代官所へ訴えられる。 |
1805年 |
文化二 |
48 |
五合庵に定住する。 |
1807年 |
文化四 |
50 |
中山の西照坊にしばらく住む。法友三輪左市死亡(享年47)。 |
1808年 |
文化五 |
51 |
法友有願死去(享年71)。 |
1809年 |
文化六 |
52 |
江戸の儒者亀田鵬斎来越し、良寛と交遊。 |
1810年 |
文化七 |
53 |
観照寺に仮住まい。由之が家財没収の上、所払いの処分を受ける。 |
1811年 |
文化八 |
54 |
由之が隠居し、馬之助家を継ぐ。 |
1812年 |
文化九 |
55 |
橘崑崙『北越奇談』江戸で出版、良寛の記事がある。 |
1816年 |
文化十三 |
59 |
乙子神社草庵に移住。 |
1819年 |
文政二 |
62 |
解良叔間死去(享年55)。長岡藩主・牧野忠精、五合庵に良寛を訪ねたという。 |
1821年 |
文政四 |
64 |
妹むらの嫁ぎ先の外山家で由之と三人で会う。由之は酒田へ旅する。 |
1824年 |
文政七 |
67 |
むら死去(享年65)。 |
1826年 |
文政九 |
69 |
島崎の木村家内草庵に移る。由之、与板に松下庵を結ぶ。 |
1827年 |
文政十 |
70 |
2月、原田鵲斎死亡(享年65)。夏、寺泊の密蔵院に仮住。秋に貞心尼と初相見。 |
1828年 |
文政十一 |
71 |
11月12日、三条大地震。 |
1830年 |
天保一 |
73 |
7月ころから病気。一時小康状態となるが、12月下旬に危篤状態に。 |
1831年 |
天保二 |
74 |
正月6日、申の刻、良寛死去。8日葬式。 |